20世紀の後半、上場企業のほとんどが、高学歴の男性をエリート候補として新卒採用し、そのまま終身雇用制のなかで、年功をベースに昇進する仕組みを基本に運営されていました。まさに現代の武士階級だったのです。
しかし、このカイシャ幕藩体制は大幅なモデルチェンジを迫られつつあります。世界の変化と日本自身の社会構造の変化の中、21世紀には、戦後日本人が営々と築き上げてきたこの仕組みは機能しません。少子高齢化、女性の社会進出、そして世界的競争と成長鈍化の現実。終身雇用と年功制が社会の大半を持続的にカバーすることは絶対に不可能なのです。
日本のいまの社会はネオテニー化、体は大人でも精神的に幼児化しているので、最初に就職する会社というのは、ある意味で大人になるための大学院、ヨーロッパで言うとフィニッシングスクールです。
フィニッシングスクールというのは、上流家庭の子女が結婚する前に、最後に教養の仕上げをする場なのですが、だったら名の知れている、安全な場所がいいとだれでも考えます。
ブランドネームというのは世間を渡る上で便利なことが多いのは事実です。ですから、それを必ずしも否定しませんが、確率論でいうと、そのとりあえず入ったフィニッシングスクールで本当に人生をフィニッシュするところまで行ける確率は、きわめて、きわめて低いはずです。それは覚悟してもらうしかありません。
最初の就職先で大企業に入るのはいいとして、大事なことは、少なくとも若いときにあまり認められようと思わないことです。みんなに愛されようと思わない。嫌われ、憎まれ、生意気と言われることを恐れないことです。
私の判断基準は、結局、自分自身の価値基準に照らして「カッコいい」かどうかなのです。自分が面白いと思ったらやる、行きたかったら行くっていう具合です。私にとって「カッコいい」というのは、自分の心の奥底から自然に湧き上がる思いや、やりたいことに従うことです。たとえそれが、世の中でよしとされている生き方や潮流とは逆向きのものであっても、いっこうに構いません。むしろ、いま世の中で流行っているものを追いかける方が、私にとってはダサい生き方なのです。
人間の在り方というのは、結局、最後に何を自分が喜びとするかに還元されると思うのです。エリートの8割から9割は自己愛の塊で最後は保身に走ります。彼らは、人生の何を喜びとするかという点で広がりがないし、次元が低いからそうなるのです。
自己愛をそういった低いレベルから解放し、もっと昇華していくと、自分以外のものに愛を注ぐ対象が移っていくんですね。
自分が生きていることの実感がいちばん湧くのは、自分が何らかの仕事をしたり、頑張るなりして、自分以外のもの、それは社会かもしれないし、家族かもしれないし、仕事のカウンターパートかもしれませんが、とにかく、自分以外のものをよりよくできたという実感を持ったときだと思うのです。
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冨山和彦さんの時代を見る目、行動力、旧弊をなかなか打ち破れないもどかしさ、しかし、ポジティブな未来を信じて疑わないエネルギーみたいなものに深く共鳴します。
高校生の頃読んだ司馬遼太郎で、坂本竜馬(だと思うが、別の脱藩志士かもしれない)が、土佐藩の中堅武士に脱藩を勧めに行くのだけど、家族やら将来の安定やらで躊躇する場面があったことを覚えています。
夢以外に失うものがなかった高校生の僕は、「オトナになるとメンドクサイもんだな」と思ったものでした。
僕が最初のカイシャを辞めるときに、世話になった上司・先輩がみんな引き止めてくれました。
会社が大変な時だから、一緒に頑張ろうじゃないか、と。
残念ながらその会社は、当時から業績が回復することのないまま、また大幅にリストラしなければならないようです。
幸いにして小さい会社だけども気に入った仕事とやりがいに満ちている今の僕にとっては、、あの時辞める勇気をもっていなかったらと思うと、ぞっとするのです。
40歳を越えた今はじめて転職にチャレンジしようとしたとすれば、職種やポストも相当限られたものになっていたでしょうし。
そうすると、この本を読んで一番感動した後段の「自分以外のものをよりよくできたという実感」なんて絵空事に響いたかもしれません。
前の会社は、経営陣が能力がないとかいう問題でなく、冨山さんのいう「終身雇用と年功制」にべったりぶらさがるマインドセットが構造化していることが問題の根本なんだと思います。そして、そういう会社組織がまだまだ多数派なんでしょうね。
冨山さんには及びもつきませんが、やれることは色々ある気がします。